1話・小夜子
玄関のドアを開けると、陽光とともに冷気がキンッと頬を刺す。
昨日から降り続いていた雪が、一夜にして辺りを真白に包んでいた。
ほぅ・・・っと洩れた橋本の息も白い。
「行ってらっしゃいませ」
玄関口で、いつものように妻・小夜子(さよこ)の見送りを受ける。
ひとり息子の陽仁(はるひと)は門扉のところまでついてきた。
積雪の上を、楽しそうにサクサクと足音を鳴らして。
「パパぁ!行ってらっしゃ〜い!」
大きく手を振る息子に、父親は軽く右手を上げた。
鞄を持つ手は冷たいのに、上げた右手は温かだった。
玄関から門扉まで距離とも呼べない僅かな道を、陽仁の小さな手が父親の手をぎゅっと握り締めていた。
小さな手の大きな温もり。
温もりを逃がすまいと、橋本はコートのポケットに右手を入れた。
今日は12月25日土曜日。
本来なら土曜日は休みなのだが、フランスレストランを母体とする企業がクリスマスに休めるわけがない。
年に一度の大イベントは、正月よりクリスマスなのだ。
レストラン勤務方はもちろん、営業、事務方、全社員がクリスマス臨戦態勢で望む。
クリスマスは仕事、橋本家のパパはそんな会社に勤めている。
パパ、A&Kカンパニー秘書課勤務。
ママ、来年第二子出産予定。
息子、6歳。来年小学校入学予定。
夫の見送りが済むと、小夜子も出掛ける用意を始めた。
クリスマスは毎年橋本の実家へ行く。
仕事柄、父親と一緒にクリスマスを過ごせない陽仁が寂しくないように。
舅と姑。年の離れた夫の妹。
陽仁はまだ二十一歳と若いその叔母を当然のようにお姉ちゃんと呼び、若い叔母は陽仁を弟のように可愛がっていた。
また今年も夫の顰め面を見るのだろうか。
去年のクリスマスの思い出に、小夜子の頬が自然と弛む。
仕事を終えて迎えに来る橋本は、自分の実家なのに顰め面が取れない。
プレゼントの山に埋もれて眠る陽仁を抱きかかえながら、甘すぎると妻に愚痴を零すのだ。
小夜子はくすくすと笑いを堪えながら、夫の愚痴を黙って聞き流す。
「何言ってるのよぉ、お兄ちゃんが一番甘いんじゃない。
ハルが手に握っているミニチュアカー、あれいくらしたの?どうみても、玩具っていう値段じゃないわよね」
思うことは、きっちり義妹が言ってくれる。
車が大好きな陽仁は、最近ではより本物に近い物を欲しがるようになった。
眠っても離さないミニチュアカーは、よほど気に入ったのだろう。
「そりゃ、パパの車だもんねぇ。ほーんと、お兄ちゃんて親バカよねぇ、お義姉さん」
実の妹だけに、遠慮がない。
「うるさい!小夜子、帰るぞ!」
橋本の顰め面が、さらに深く歪む。
義妹は小夜子の方を見て、ペロリと舌を出した。
引き際も心得ているようだ。
さらりと話題を変えて、そのまま小夜子に拝む仕草で手を合わせた。
「それじゃ、お義姉さん。今度の成人式は、宜しくお願いします!」
「小夜子さん、私からもお願いします。素人の着付けでは、なかなかトータルには出来なくて」
「お義母様、私ももう素人ですわ」
「お義姉さんが素人なら、その辺の美容師はみんな素人よ!
お母さんの髪だって、すっごい綺麗にカットしてるじゃない。ねっ、お母さん」
「お母さん、この小夜子さんからのクリスマスプレゼントが、一番嬉しいの」
そう言って母は娘に、セミロングの髪を手で自慢げにサラサラとすべらした。
「小夜子!!」
いつまでも話し込む妻に、夫は苛立つばかりだ。
「何だね、あいつは大きな声で・・・。陽坊が目を覚ますじゃないか」
ああ・・・夫の顰め面は義父のDNAを受け継いでいるのだったと、小夜子はそんなことを思い返しながらシザーズセット(理髪道具)を収納棚から取り出した。
橋本家では、夫と息子の散髪は小夜子がする。
小夜子は美容師の資格を持っていた。
橋本と知り合った頃は既に一線級のヘアスタイリストだった。
国内の美容コンクールで研鑽を積み、次は海外を目指すというところで橋本との結婚により美容界から身を引いた。
義妹にお義姉さん、宜しくお願いします!≠ニ手を合わされたのは、成人式で着る振袖のトータルコーディネート(ヘアメイク&着付け)を頼まれたのだった。
実践の現場からは離れていても、鍛えていた技術は手が覚えている。
義妹の艶やかな振袖姿は、成人式で友人達の驚嘆と羨望を独り占めにした。
義母には毎年クリスマスに、一年間の感謝を込めて。
流れるようなカットラインと丁寧なカラーリング。
小夜子の手が髪に潤いと光沢を与える。
一流の技術は、素人目には魔法のようだ。
「幾つになっても綺麗な髪で新年を迎えられるのは、女性としてとても幸せなことね。ありがとう、小夜子さん」
と、義母は何よりも喜んだ。
小夜子の手に馴染んだシザーズ・・・家族の為だけに残しておいた、唯一の理髪道具。
努力の分だけ、裏切ることなく身を守ってくれた美容師の仕事。
しかし未練はなかった。
それは感謝すべきことではあったが、そこに自分の求めるものはなかった。
「ママー、雪だるま出来たー!」
玄関先から、陽仁の声がした。
父親を見送って、そのまま庭で雪遊びに夢中のようだった。
小夜子はニットのハーフコートを羽織って、玄関を出た。
安定期に入ったとはいえ、陽仁との間に一度流産している。
少しの間でも、冷えは禁物だ。
「わぁ、ハル君。たくさん作ったのね」
コロコロと大きいのや小さいのやらが、花壇に置かれていた。
お団子のような雪だるまだが、殺風景な冬の花壇には可愛いオブジェのようだ。
「こっちの大きいのがパパ!こっちがママ!ぼくはパパの前にいるこの子なの。
それからねぇ・・・ぼくのとなりにいてママの前にいる、この子はだぁれ〜だ!?」
陽仁の説明混じりのクイズは、その配置からすっかり答えを教えているようなものだった。
小夜子は少し考える振りをして、答えた。
「赤ちゃん」
「大せいか〜い!」
陽仁は赤ちゃんを家族と認識していた。
小夜子のお腹が目立って膨らんできたからだろうか、或いは赤ちゃんの物が増えてきたからだろうか。
以前は赤ちゃんが母親のお腹にいるということが実感として捉えることが出来ず、ただヤキモチを妬いていたときのことを思うと、ずいぶん成長している。
「じゃあ、次はママね。ハル君は赤ちゃんの、な〜んだ?」
「えへへっ、お兄ちゃん・・・」
照れくさそうに身を捩りながらも満面の笑みで、リンゴのような頬が落ちそうだ。
「大せいか〜い。じゃあ、お兄ちゃんなら次から守れるかな。
雪遊びするときは、手袋をしてね。しもやけになっちゃうでしょう」
新米お兄ちゃんは、嬉しそうに頷いた。
陽仁の雪に濡れた手は驚くほど冷たかったが、小夜子が少し擦ってやると子供特有の高い体温のせいか、すぐ温かさを取り戻した。
「さあ、お洋服着替えましょう。おじいちゃまたち待っていらっしゃるわ」
ちょうど玄関の上がり口のところで、電話が鳴った。
「ぼく、出るー!」
身重の小夜子より数倍身軽な陽仁が、走って電話に出た。
「もしもしー・・・おばあちゃん!?・・・うん、お洋服お着がえしてから!
ママ?いるよー。おばあちゃん?あのね、あのね、おばあちゃんのお家も雪ある?」
どうやら義母からのようだった。
小夜子は陽仁が脱ぎ散らかした靴を片付けて、玄関口を上がった。
「じゃあね、ぼく雪だるまつくってあげる!待っててね!
・・・はぁいっ!ママー、おばあちゃんお話があるってー!」
「お早うございます、お義母様。はい、これからお伺いいたします。
・・・えっ、お義父様がお迎えに?あっ、ちょっとすみません。・・・ハル君、お着替えはひとりで出来るわね」
「お着がえ♪ お着がえ♪」
お兄ちゃんは何だってひとりで出来るのだ。
陽仁は二階の自分部屋へ駆け上がって行った。
「・・・ええ、こちらも積もっていますが・・・そんな、大丈夫です。むしろ嬉しいくらいですわ。
クリスマスに雪が降るなんて、そうありませんもの」
どうやらこの雪で身重の小夜子の身体を心配した義父が、家まで迎えに来るというのだ。
「それにお義母様ご存知でした?最近では、子供の喜ぶキャラクターデザインの電車が走っているんですよ。
陽仁も電車に乗るのを、楽しみにしているんです」
〔 あら、それじゃお父さん勝てないわね。わかりました。
急がなくて良いから、雪に足を滑らさないように、くれぐれも気をつけてね 〕
そう言って、義母は電話を切った。
「お義母様・・・」
胸の奥から込み上げてくる熱い思い。
義理の母でありながら、小夜子は慕うように呟いた。
リビングに戻ると、中断していた支度を始めた。
支度と言ってもプレゼントや荷物になるものは先に実家へ送っているので、カバンに詰めるものはたいしてない。
さっき収納棚から出しておいたシザーズセットが、まだテーブルの上に置いたままだった。
そっと手に取ると、大事にカバンに収めた。
小夜子の、一滴の涙と共に。
愛を謳えば―― 小夜子。
小夜子に両親はいなかった。
物心の付いた時には、既に施設にいた。
小学校に入学するまで、そこが施設だということさえわからなかった。
中学生になって自分が施設で暮らさなければならなくなった経緯を、職員から少しだけ話を聞くことが出来た。
それはほんとうに少しで、職員がどれだけ事実をかき集め探しても何も出てこなかった。
職員は仕方なく、小夜子に戸籍を見せた。
本籍地は乳児院だった。小夜子の名前だけが記載されていた。
出生届もされておらず、両親の身元も不明。小夜子の為に作られた戸籍なのだ。
少ない話の中から、名字は乳児院の院長先生からもらい、名前は副院長先生がつけたと聞かされた。
名前すらなかったのか・・・。
当時中学一年生だった小夜子は、端的にそう思っただけだった。
学校に行き始め友達が出来て行動範囲が広がると、ことあるごとにいまのような出来事にぶつかるのだ。
いつしか寂しいとか悲しいとか、そういった感情には振り回されないようになっていた。
慣れなのか訓練なのか・・・その時はわからなかったが、後になってそれは訓練によるものだと小夜子は思った。
寂しさや悲しさに、慣れるということはないのだ。
中学の進路相談では、小夜子は美容師を希望した。
勉強もよく出来たので学校や施設からは高校進学を勧められたが、仮に進学したとしても身を立てるには、学業は時間が掛かりすぎる。
美容師はひとりで生きて行く為に、小夜子自身が選んだ職業だった。
施設の中の規制された生活。感情を押し殺しながら笑顔で過ごした学校生活。
どれも贅沢なことさえ思わなければ、施設の職員の人たちは優しかったし学校でも友達は理解してくれていた。
その環境から、酷く苛められるということもなかった。
それでも、孤独が小夜子を駆り立てた。
中学を卒業すると、大手チェーン店の美容院に就職した。
住み込みで働きながら、美容師の資格が取れる。
それからの小夜子は無我夢中で働いた。
下働きのときは、器具の手入れと床掃除、シャンプーとマッサージが延々と続いた。
仕事が終ってからウイッグを使ってのカット練習も、小夜子の順番までほとんど回ることはなかった。
しかしそれよりも辟易としたのが、職場の人間関係だった。
小夜子の職場は、言わば自分の腕一本でのし上がってきた者たちばかりなのだ。
神技のような技術で常に流行の先端を追う華やかな世界の反面、激しい競争心、嫉妬やいじめが渦巻く世界でもある。
先輩の女子はヒステリックに当り散らし、先輩の男子は下心丸出しで言い寄ってくる。
特に先輩の男子は、ものに出来ないとわかると途端に陰険になった。
こうなると男の方がよほど陰湿で性質が悪く、堪えきれず辞めていく同僚も多かった。
小夜子は辞めても帰るべき処がなかったので、そこで働くしかなかった。
そんな中でも、仕事はこなした分だけ忠実に結果が返ってきた。
美容師の資格も得て一人前に客のカットを任されるようになると、小夜子はめきめきと頭角を現した。
今までに何百人・・・いや何千人の頭を洗ってきただろう。
マッサージは頭頂部から、それこそ腕の先まで。
美容師と整体師と、どちらが本業かわからないくらいマッサージについても勉強した。
小夜子のシャンプーとマッサージに、それだけで満足だと言う客もいるほどだった。
さらに接客業の基本ともいうべき人当たりの柔らかさも、人気の後押しをした。
やがて小夜子は本店へ引き抜かれる形での異動となった。
給料も大幅にアップし、寮を出てマンションを借りた。
衣、食、住の住≠ヘ、生まれて初めて自分の安息の場となった。
やっと息をついたそこには、化粧台の三面鏡に映る二十三歳の自分がいた。
十五歳で美容師の道を選んだ日から八年、ティーンエイジの時代はただ働くだけで過ぎてしまった。
恋愛に興味がなかったわけではない、そんな余裕がなかったのだ。
だが二十三歳のいま、小夜子は三面鏡の前で髪を梳かしながら、ようやく女としての自分を緩々と感じ始めていた。
ある日小夜子は、オーナー(経営者)の呼び出しを受ける。
いくら本店勤務とはいえ、一介の美容師が声を掛けられることは珍しい。
ましてや呼び出しとなると、小夜子自身何を言われるのか想像がつかなかった。
オーナーの付き人に案内されて、部屋に入った。
執務室は広さだけはあるが、華美な装飾は一切なかった。
大きなデスクと簡素な応接セットがあるだけだった。
付き人は部屋の中には入らず、外から頭を下げて扉を閉めた。
オーナーはデスクの縁に、背をあずけるように立っていた。
「待っていたよ。さあ、掛けたまえ」
数十店舗のチェーン店を束ねる実力者は、精悍な眼を細めて小夜子を手招いた。
オーナーが小夜子の存在を知ったのは、各店舗の店長から上がってくる勤務評価の報告書からだった。
A評価は特別珍しいことではなかったが、プロフィール欄が興味を引いた。
さっそく詳しい経歴を調べ、小夜子の勤めるチェーン店へ視察に出向いた。
全体を見る振りをして、小夜子だけを注視した。
それが目的なのだ、余分なことは目に入れない。
店長には暫く全員の勤務評価を毎月細かく報告するよう義務付けた。
結果、一年後小夜子は本店勤務となる。
「私は、これから君に投資する。投資とは特別扱いをすることではないよ、勘違いしないように。
君に与えられるチャンスだ、ものに出来るかは君次第だけどね・・・私は心配していない。君は出来る子だ」
それからの小夜子は、ますます美容師としてのステージを上げていく。
権威ある美容コンクールや有名デザイナーのファッションショーのヘアメイクなど、与えられたチャンスを確実にこなして行った。
「小夜子、君は見かけとは違って実にストイックで強い。君のその部分は非常に価値があるし、そそられるね」
その口説き文句に喜ぶべきなのか抗議すべきなのか、小夜子は静かに目を伏せてオーナーの胸に顔を埋めた。
二人が男女の仲になるのは、自然なことだった。
情熱と信頼と尊敬と。
そして公私混同をしない、仕事への厳しさと。
小夜子はそんな関係に満足だった。
ただひとつ、オーナーが既婚者ということを除けば。
承知して受け入れた愛は、小夜子から感情のコントロールを取り去った。
抱かれる温もりも、愛の言葉も、痛いほど小夜子の身体と心を揺さぶった。
愛されることを知って、愛することを知った。
もう独りに戻れない。
「ん?どうした?不安そうな顔だ・・・」
「・・・私も、もう二十五です。少し今後のことを考えさせて下さい」
「今後のこと?・・・結婚に欲が出来てきたか」
「私には、結婚は欲なのですか」
「君にとって、結婚は弊害でしかない。君は仕事と両立出来るタイプじゃないからね」
見抜かれている。
いつでも今の仕事を捨てることに、何の躊躇いも持っていないことを。
わかっていたことではあったが、愛されているのはヘアデザイナーとしての自分なのだ。
オーナーにとって、それ以外は何もいらない。
後悔はなかった。
「別れて下さい」
「・・・いいだろう。但し他所への移籍は認めないよ。
君には投資しているんだ、まだまだウチで頑張ってもらわないとね」
小夜子の申し出に、オーナーは愛とビジネスを割り切る言葉であっさり同意した。
オーナーとの付き合いを解消した小夜子は、そのまま本店勤務を続けた。
他所への移籍は有り得なかった。いまの職場には育ててもらった恩がある。
優秀な若手スタッフに、自分の技術を引き継いでもらうまで。
「小夜子さん、次の予約は午後二時からカット、パーマ、カラーリングのお客様です」
「そう、まだ少し時間があるわね。お待ちのお客様に、お茶をお出しして来ます。カップは温めてある?」
「そんなこと、我々がします!小夜子さんは、休んでいてください!」
まだ見習いのスタッフが、恐縮するように飛んで来た。
小夜子は本店でも、もう指名客しか扱わない地位にいた。
「予約に間をいただいているから、大丈夫よ。私に気を使う暇があるなら、
あなたたちは一人でも多くのお客様の髪を触らせていただきなさい。シャンプーでも、カットでもね」
はいっ!と、真剣な表情で返事をする彼ら彼女たちに、昔の自分の姿が重なる。
言われるままに駆け回っていた頃、床に散った髪を掃き取り、器具を手入れし、指先の指紋が薬品で磨耗してもシャンプーをし続けた。
辛かったはずの毎日が、いまでは懐かしく思えるから不思議だ。
小夜子は昔を思い起こしながらお茶を乗せたトレーを持って、順番待ちやカラーリング待ちの客の間を回った。
「いらっしゃいませ。どうぞ、お好きな方をお取り下さい」
「・・・俺?」
「ええ。コーヒーか紅茶ですが・・・冷たいお飲み物の方が宜しいですか?」
「いや・・・俺は客じゃないから。待ってるだけなんで・・・」
順番を待つコーナーのところで雑誌を読んでいた青年は、ぶっきらぼうに答えた。
見掛けは温和そうなのに、喋ると意外に無愛想だった。
長めの前髪を無造作に横に流し染めてもいないオーソドックスな髪型の青年は、どう見ても小夜子より若い。
「お待たせして申し訳ありません。どちらのお嬢様の彼氏さんかしら?」
客商売とはいえ何も四角四面に謙ることはない。
そこは臨機応変に、若者には少し砕けた友達感覚で接するのもまた人気店の要素のひとつなのだ。
「うおっ!小夜子さんだ!橋本ー!お前、その人が小夜子さんだぞ!」
「きゃっ!お客様!急に頭を動かすと、滴が・・・!」
シャンプー台から若者の大きな声と、スタッフの小さな叫び声がした。
「あちらのお友達の方ですか」
橋本と呼ばれた青年は、すっと目を逸らした。
正確には、小夜子を正視出来ない様子だった。
「俺たち、これから合コンなんだよね。その前に、髪整えておこうと思ってさ。
そいつは男が美容院なんて・・・みたいな、変に勘違いした先入観持ってんだよね」
シャンプーを終えてヘアカットの鏡の前に移った橋本の連れは、聞かれもしないのにぺらぺらと小夜子に向かって話した。
「中で待つのも嫌がってたくせにさ、最近小夜子さん店にいること多いじゃん。
見るだけでも損しない彼女がいるって言ったら、ついて来てやがった」
とても滑らかな口は、余分なことまで言ってしまうようだ。
「すみません、小夜子さん!いま連絡が入って、二時の予約キャンセルです」
キャンセルは間々あることだが、間際のキャンセルはやはり困る。
次の予約までの時間調整がつき難いからだ。
小夜子は空き時間をどうしようかと考えたが、今回はすぐ名案が浮かんだようだった。
「そうだわ、シャンプーさせて下さい。あなたも合コンなんでしょう、私に任せて。サービスします」
昔を懐かしんだせいだろうか、久々にシャンプーをしたいと思った。
溌溂とした若いスタッフたちに混じって、原点に帰るのも良い。
「おっ・・俺!?俺は・・・いい・・・」
「ばかやろうっ!!勿体無いこと言うんじゃねぇー!!」
「お客様ッ!!頭を動かさないで下さい!!切り口が揃わなくて、仕舞いに坊主になりますよ!!」
和気藹々とした雰囲気が、ヘアサロンを包む。
小夜子もその雰囲気を楽しむように、さあどうぞと青年の背に手を回した。
「それにしてもあの青年、小夜子さんに髪をセットしてもらうなんて、ほんとラッキーだよね!」
「そうそう!おまけにタダなもんだから、連れに俺のヘア代半分払え!って、迫られてさ。結局払わされてたな」
閉店後、若手スタッフたちが可笑しそうに話しながら、後片付けをしていた。
「そうなの?かえって迷惑だったかしら・・・」
「小夜子さん、お疲れ様です!そんなことありませんよ!
あの青年、めっちゃ小夜子さんのこと意識してましたよ。ずーっと緊張してて、顔真っ赤でしたもん」
「友達の方も儲かったって喜んでたし、今頃二人ともルンルンで合コン楽しんでますよ」
「それだったら、いいけど・・・」
スタッフたちの話につられるように、小夜子は昼間の青年を思い出した。
シャンプーの時はタオルを顔に掛けているので表情はわからないが、全体の雰囲気でガチガチに緊張しているのがわかった。
本来ならリラックスするはずなのに、小夜子は自分のシャンプーの腕が落ちたのかと思ったほどだった。
シャンプーの後、少し前髪を切ってから髪を乾かした。
軽く額に掛かった前髪が、青年の若さをより引き立たせた。
「それじゃ皆さん、お疲れ様。後を宜しくお願いします」
「はい!お疲れ様でした!」
「お疲れ様でした!」
「・・・でさぁ、彼らN大の学生なんだって!私、聞いちゃった!」
「えーっ!?N大って超お利口じゃん!」
小夜子が帰る間際も、まだ話しは続いていた。
学生・・・何気なく耳に届いた内容は、ほんの一欠けらも小夜子の興味を引くことはなかった。
自分とは住む世界が違う。
彼らもまた日常のすれ違う多くの客のひとりとして、小夜子の視界から消えて行くはずだった。
乱立するビルの一角、いつものように従業員用の裏口から出た。
出口までの長いコンクリートの廊下は、ヒール音が響く。
カツン、カツン、カツ・・・
だがほんの二、三歩で、小夜子のヒール音は止まった。
「・・・あなた・・・橋本・・君?」
消えて行くはずの人が、目の前に立っていた。
「・・・名前、覚えてくれていたんですね」
疑問符付きながら名前を間違わずに呼ばれたことを、青年は素直に喜んだ。
昼間の緊張や照れを隠すような無愛想さは、微塵もなかった。
好意を寄せての待ち伏せなのは、明白だった。
小夜子は目の前の橋本を見つめながら、自分のカットしたヘアスタイルが良く似合っていると思った。
若々しさもそうだが待ち伏せという行為にも関わらず、その雰囲気からは育ちの良さが滲み出ている。
―住む世界が違う―
スタッフたちの噂話しにさえそう思ったことが、本人を前にすると余計強く感じられた。
「お客様商売ですから。・・・合コンだったかしら、私は行ったことがないのでよくわからないけれど、もう終ったの?」
「行かなくて正解です。面白くもなんともない」
「そう。それじゃ、あなたも帰るところね。そこまで一緒に帰りましょうか」
無闇に相手の行為を遮る言動は避けつつ、小夜子は橋本の思いをはっきりわかる形でいなした。
「待って!」
横をすり抜けてさっさと歩き出した小夜子の前を、橋本は回り込んでまたしても塞いだ。
「これ、受け取って下さい。もしも・・・小夜子さんにいま付き合っている奴がいなかったら、電話下さい!」
橋本は携帯番号のメモを突きつけた。
「ふふっ、橋本君、おかしな子ね。合コンじゃなくて、私なの?」
「茶化さないで下さい。俺、真面目です」
真剣な瞳に、誤魔化しは効かない。
いなしたつもりの小夜子だったが、橋本には通用しなかった。
「・・・ごめんなさい。そんなつもりじゃないの、あなた幾つ?」
「二十歳です」
「私は二十五よ。五歳差は、あなたが思う以上に大きいわよ。それに、あなたはまだ学生でしょ」
諭すつもりの言葉は、どちらかというと自分に言い聞かせているのだと小夜子は思った。
特に店の客には一線を引く、いつもそうして来たように。
しかし橋本は、小夜子の引いた一線を難なく超えて来た。
「そういうことを考えているってことは、いま付き合っている奴はいないってことですよね」
「あっ・・・違うの!あの・・・そうじゃなくて・・・」
「あっ」と、思わず洩れた小夜子の声は、その後をどう否定しようとも橋本の言葉を認めたようなものだった。
橋本は情熱的だった。
オーナーのように愛の言葉を囁くわけではないが、橋本の言動や行動はそのひとつひとつがとても新鮮で誠実だった。
何度かのやり取りをして、住む世界が違うと一旦は断ったが、結局橋本に押し切られて付き合うようになった。
押し切られたと言っても、小夜子自身橋本に惹かれて行く自分に為す術がなかったというのが本当のところだった。
橋本は学生の身ながら、社会人の小夜子にデート代は一切持たせなかった。
育ちが良いといっても、贅沢に小遣いが使えるほど大金持ちでもない。
当然アルバイトにも精を出さなければならなかった。
時々それが、二人の言い争いのタネになった。
小夜子からすれば橋本とのデート代など、はっきり言って知れたものなのだ。
ファーストフード店で食事を済ませてから映画を見て、その後は公園をぶらぶら歩いて帰った。
バイト代が入ったらレンタカーを借りて、仏閣や美術館を巡って造詣を深めた。
生きてきた環境は違うのに、二人の物事に対する価値観は非常に近かった。
「二人で楽しむことは、割り勘でいいんじゃないの。
私は働いているのよ、学生のあなたに金銭的な負担はかけたくないわ」
なのに、その部分だけは頑として譲らなかった。
根負けした小夜子が「頑固者」と愛想を尽かすように言うと、決まって橋本は顰め面で黙った。
「髪、伸びたわね。切らなくちゃ。予約を取っておくから、いつにする?」
「いや、いい。美容院へは行かないよ」
「心配しないで。スタッフの人たちには、私たちのことは何も言ってないわよ」
「・・・何の心配だよ。小夜子さんは、俺とのことをそんなふうに思ってんの?」
心外そうな橋本に、小夜子も言い返した。
「あなたは私に、何もさせてくれないじゃない。そう思っても仕方ないでしょう」
「・・・ごめん。俺がまだ小夜子さんに何もしてやれないから・・・。
嫌なんだ、自分が出来ないのに、してもらうのは・・・」
ここと言うときに、橋本はストレートに自分の感情をぶつけてくる。
それは愛の言葉よりも強烈だった。
「私の部屋へ来て。私にあなたの髪を切らせて。・・・それも嫌?」
「・・・嫌じゃない」
小夜子は橋本と付き合っていても、結婚出来るとは思っていなかった。
だがオーナーの時のように、別れるという選択肢も持たなかった。
何故か橋本といると、安心感に包まれている気がするのだ。
何の安心感かはよくわからないが、五歳も年下の橋本に、実際はあまり年の差を感じていないところなどそのひとつなのかもしれない。
たぶん橋本は目一杯背伸びをしているのだろう、だからこそ小夜子も逃げないのだ。
橋本の愛は、初めて小夜子に自分の環境に立ち向かう勇気を与えた。
「君は、避妊しているのか?もし子供が出来たら、遠慮なく言いなさい。
認知はしてあげよう。養育費も心配しなくていい。私も、君の子供なら悪くないしね」
「私に子供だけ作れとおっしゃるのですか」
「別に。君がいらないのならそれでいい。
まぁでもね、この先子供でもいれば、また仕事にも張り合いが出るし、君だって寂しくないだろう?」
価値観の違いとはこういうことを言うのだろうと、小夜子は嘔吐する胸を擦りながら、ふとそんなことを思い出した。
お腹に子供が出来ていた。
もちろん橋本の子供だった。
オーナーの時は、小夜子は避妊薬のピルを飲んでいた。
妊娠だけは絶対避けなければいけない。
どれだけ愛に溺れても、それだけは頭から離れなかった。
避妊のことはあえて言わなかったが、オーナーにはどちらでも然したる問題ではなかったようだった。
あれほど妊娠に気をつけていた小夜子が、橋本には無防備だった。
ピルを飲む気にはなれなかった。
ただ自然に任せて、その上で子供が出来れば幸福だと思った。
いや、橋本の子供だからそう思ったのかもしれない。
これは自分の我が侭だから、学生の橋本に責任を負わすつもりはない。
全ての責任は自分が持つ。
そんなふうに小夜子は思っていたが、それは橋本も同じだった。
ああ、そうだった、彼はそういう人だったのだと、小夜子は橋本の背に熱い頬を押し付けた。
橋本は、小夜子の妊娠を喜んだ。
「おめでとうは、俺もだよな」
「・・・以前あなたは言ったわね、何もしてやれない自分が嫌だと。私も同じなの。
お願い、あなたと産まれてくるこの子の為に、私に出来ることをさせて下さい」
「小夜子!俺は必ず一流企業に就職する。それまで子供のことも、俺はお前に甘えていいか・・・」
男の小さなプライドなど、大切な命の前では如何ほどのものか。
橋本は小夜子を抱きしめた。
小夜子は妊娠を機に、美容院を辞めた。
当分暮らして行くくらいの貯えはあったし、自分に代わる人材も育っている。
小夜子には、潮時でもあった。
オーナーには会えなかった。
最後に礼を言っておきたかったが、辞めて行く者に会ったところで時間の無駄くらいに思っているのだろう。
酷い人とは思わなかった。それがあの人のスタイルなのだ。
オーナーの望む仕事のプロにはなれなかったけれど、人として、女として成長させてくれた人だ。
感謝の気持ちが、それまでの思い出を溶かしてくれるように小夜子の心に沁みこんだ。
それから一年、月日は緩やかに過ぎた。
小夜子はマンションを移り、子供が生まれ、橋本の学生生活も後半年を残すのみとなった。
卒業後の就職先も早々と一流企業が内定していた。
橋本とは子供が生まれる前に、婚姻届を出した。
結婚式は挙げなかった。
橋本の両親が小夜子を認めていなかった。頑なに拒み、会おうとすらしなかった。
小夜子には、それは最初からわかっていたことだった。
その上で橋本と結婚したのだ。
誰を恨むということもなかった。
橋本はすでに家を出て、小夜子のマンションで暮らしていた。
大学の費用も親子三人の生活費も、全て小夜子の貯えから賄った。
もし底をつけば、どこか小さな美容院で働けばいい。
資格を持っていたことは、ありがたかった。
橋本の家族には申し訳なかったが、小夜子は幸せだった。
「ハル〜、パパは早く働きたい〜。ママの世話になってるなんて、お前と一緒だな」
「何馬鹿なこと言ってるの、やめて。せっかく眠ったのに、陽仁が起きちゃうわ」
案の定、赤ん坊の陽仁が泣き声を上げた。
「ハルくん、寝んね、寝んね。ごめんね〜、悪いパパね」
赤ん坊が生まれた時、橋本は産院で、
「俺たちの太陽だ!」
と、叫んだ。
二人に降り注ぐ陽≠フ光。
橋本はその下に仁≠付けて、陽仁(はるひと)と命名した。
仁≠ヘ、他に対するいたわりある心、慈しみ、思いやり。
小夜子はその一文字で、夫の思いを知るのだった。
陽仁はそんな二人の愛情の中で、すくすくと育っていた。
親子三人初めて迎えたクリスマスではまだお座りも危うい陽仁に、橋本は足漕ぎ用の大きな玩具の車を買って来て小夜子を呆れさせた。
幸せな時は、どんなことにでも優しくなれる。
―――静かに、年が明けた。
「小夜子、今年は俺の元年だ。俺は、やるぞ」
短い言葉ながら滾る(たぎ/る=感情が心に強くわき起こる)眼差しで、橋本が小夜子にきっぱり言い切ったのはついこの間だった。
何が起こったのか、まだその時はわからなかった。
橋本は時折、外泊することがあった。
一日だけのこともあるし、数日のこともある。
連絡は必ず入った。
外泊理由に触れていないことで、小夜子には橋本が実家にいるのだとわかる。
未だ和解出来ていない両親と自分たちのこと、実家を出たからといって説得の努力をおざなりにするような橋本ではないのだ。
その日もそうだった。
昼間、橋本から送られてきた携帯メール。
【遅くなる】
日付の変わる頃、またメールが入る。
【今日は帰れない】
いつもと同じ、要点だけのそっけない内容。
「ハルくん、パパ帰って来れないんですって。ママ、寂しいなぁ」
ぐっすり眠っている陽仁に、小夜子は本音を洩らした。
呟くように口にした本音は、愛されていると実感しているが故の我が侭だ。
とてもささやかではあるけれど。
小夜子のささやかな我が侭・・・もし橋本がそれを聞いていたなら、きっと愛しさに強く抱きしめたに違いない。
カチャ、カチャ・・・
金属音・・・?
ふっと目が覚めた。
玄関の方から、鍵を開ける音がする。
誰!?
小夜子は咄嗟に身を起こした。
次の瞬間、
ガチャーン!!
鍵が開いても、中から防犯用チェーンを掛けている。
ドアチェーンの凄まじい音がした。
時計を見る余裕などないが、まだ辺りは薄暗い。
小夜子は足が震えた。
橋本からは帰って来ると連絡はなかったし、第一こんな乱暴なことをするとは考えられなかった。
ガチャーン!! ガチャーン!!
繰り返しドアチェーンの大きな音が、夜更けの集合住宅の廊下に響いた。
「や・・やめて!今開けますから!お願い・・・あなた・・・」
ドアの隙間から見えたのは、橋本だった。
和室の寝室では、大きな物音に陽仁が目を覚ましてしまっていた。
「ふぎゃぁん・・・ぎゃぁぁん・・・」
泣きながら憤る陽仁を、小夜子は急いで抱き上げた。
何が起こったのか、まだその時はわからなかった。
橋本はダイニングの椅子に荒々しく座った。
かなり酒を飲んでいるように見えた。
橋本の荒れ様に、小夜子は不安が募るばかりだった。
どうにか陽仁を寝かしつけると、和室の襖をビタリと閉めてダイニングに戻った。
その間の橋本は自暴自棄のような姿を晒していても、視線はぶれることなく小夜子を捉えていた。
「・・・内定していた会社から、取り消しの通知が来た」
ああ・・・不安は、はっきり形になって表れた。
現実はそう言うものだと、一番わかっていたのは自分なのに。
「ごめんなさい」
「何が・・・」
「・・・私があなたに、わかっていて重荷を背負わせてしまった」
「自分の女房と子供だ、俺はいくらでも背負ってやるさ。だがな・・・・・・陽仁は、俺の子か?」
「あなた・・・何を言っているの・・・」
「答えろよ・・・」
予想外の言葉に動揺した小夜子だったが、いまの橋本には小夜子のその動揺は別の意味を持って映ったようだった。
橋本の抑えた声音が、猜疑心の深さを増幅させた。
小夜子はこの時点で、橋本の荒れている理由がわかった。
内定取り消しは、たぶんそれに付随してのことだろう。
いずれにしても・・・
「お願い、少し冷静になって!全てを話せと言うなら話します」
オーナーとのことを疑っているのは間違いなかった。
「冷静に?・・・冷静になって、お前のセックスの痴話話しを聞けってか?」
「・・・・・・・・・・・・」
青ざめた唇はただ小刻みに震えるだけで、返す言葉もなく小夜子は立ち尽くすのみだった。
かつてない二人の間に漂う深遠の闇は、ブラックホールにも似て。
二人の愛を呑み込んで行く。
「ふざけるなよ!!俺が聞いているのは、こいつが俺の子かどうかだけだ!!」
橋本はいきなり立ち上がると、陽仁の寝ている和室に向かった。
「やめて!!陽仁が寝ているのよ!!」
縋りついて止めようとしたものの、男の力の前にはとうてい敵わない。
カタ――――ンッ・・・!!
力任せに引いた襖は、弾かれたような甲高い音を立てて溝から外れ、陽仁を掠めて倒れた。
大きな音に驚いた陽仁は、火がついたように泣き出した。
橋本は一瞬躊躇したものの、すぐに嫉妬に狂った目で陽仁を抱き上げようとした。
「さわらないで!!」
小夜子が後ろから橋本を突き飛ばすようにして、陽仁の上に馬乗りになった。
泣き叫ぶ陽仁の身を守るように、深く抱え込んだ。
「何ていうことをするの・・・。酷い・・・陽仁が、怪我をするところだったじゃないの!」
「・・・そんなにあいつの子が大事か」
「馬鹿なことを・・・言わないで・・・。どうして?誰がそんなことを・・・」
「お前の・・・セックス相手さ」
現実はどこまでも小夜子を突き落とす。
涙も出ない。
「あの人とのことは、あなたと付き合う以前のことだわ・・・」
「あの人?あんな下衆!何があの人だ!お前は、子供が出来たからあいつに捨てられたんだろ!!」
「私が、二股を掛けていたって言うの!?」
「お前なら出来るんじゃないか?小夜子。既婚者であろうと平気なんだろ」
倫理の前には、小夜子の切ない気持ちは通用しなかった。
だがそれでも、不実の愛と言われても、救われる魂はあるのだ。
小夜子は毅然と言い放った。
「否定はしないわ。だけど私は、あなたを裏切るようなことはしていません」
そして陽仁を、橋本から隠すように抱き上げた。
例えそれが、また橋本を逆上させる行為になったとしても。
「・・・陽仁を寄こせ。その真似は何だ・・・」
「あなたが疑っている限り、陽仁には指一本触れさせないわ!」
「それじゃあ、どうしていつまでも美容院に勤めていたんだ!!
普通なら、別れたらすぐ辞めるだろ!!それがどうだ!?辞めたのはこいつが出来てからだ!!小夜子!!」
「温々と育って来たあなたには、わからないのよ!!私の気持ちなんて!!
もういい!!陽仁は誰の子でもないわ!!私の子よ!!」
人の心のひだを言葉にすることは出来ない。
感情の縺れは、感情でしか解けない。
愛の縺れは、愛でしか解けないのだ。
「お前は・・・馬鹿にしやがって―――っ!!」
小夜子は陽仁を覆うように抱いて、伏せた。
バコッ!!バキバキィ――ッ!!!
下げた頭の真上で、襖を蹴破る音がした。
ダイニングから差し込む朝日が、襖の外れた和室の畳を照らしていた。
夜が明けたのだ。
小夜子はずっと陽仁を抱いたままだった。
静かになって暫くすると、陽仁はすやすやと眠った。
「ハルくん、パパ出て行っちゃった。・・・ママは寂しくなんかないですよー。
あんな分からず屋のパパは要りませーん。ねぇ、ハルくん・・・二人でいいよね」
諍いなどという生易しいものではなかった。
大喧嘩だった。
小夜子は自分でも信じられなかった。
いままで人に対して、あんなに大声を上げたことも感情を剥き出しにしたこともなかった。
いつもどこかに、言えない部分の自分を抱えていた。
大人になっても膝を抱えたまま蹲っている小さな女の子・・・その部分こそが小夜子のプライドだったのに。
母親になっても、まだ丸ごと包み込んでくれる温もりを求めていた自分が可笑しかった。
小夜子は小さく嘆息すると、自分の気持ちを封印するように優しく微笑む母の顔で陽仁を見つめた。
厚い雲に覆われた冬の空。
凍てつく外気の道を行く。
春まだ遠く、街路樹の枯葉が風に吹かれて靡いていた。
あの未明の大喧嘩から一ヶ月。
小夜子は陽仁を乳母車に乗せて、週に一度老人ホームへ散髪のボランティアに通っていた。
あれだけの大喧嘩なのだ、騒ぎは両隣にも筒抜けだった。
不幸中の幸いだったのは、両隣の隣人がどちらも気の良い人たちだったことで、その後も度々様子を気に掛けてくれていた。
ボランティアの話は、たまたまその隣人のひとりが施設の職員で、小夜子が美容師の資格を持っているならと懇願に近い誘いを受けてのことだった。
小夜子にとっても、お年より相手の散髪はとても良い気分転換となった。
橋本は未だ帰って来なかった。
連絡すらない。
冷静に考えれば、陽仁が橋本の子で有るか無いかなど証明するのは簡単なことだ。
本質的なところはオーナーとの関係なのだ。
あの人の倫理感では、それが許せなかっただけのことだ。
それまでの夫の自分への対し方を知っているだけに、小夜子は当然のことだと思った。
結局最初に感じた隔たりを、
―住む世界が違う―
埋めることは出来なかった。
そうやって少しずつ気持ちの整理をつける日々の中で、小夜子は一度だけオーナーに電話をかけた。
携帯のプライベート番号はとうに削除しているし、覚えていない。
いや覚えていたとしても、プライベート番号にかけるつもりはなかった。
「小夜子、待っていたよ。電話とはいえアポイントメントなしに話せるのは、君だけだぞ」
久し振りに耳にするオーナーの声は、相変わらず傲慢で自信に溢れていた。
だが同時に、どこか遠くから聞えてくるようなそんな距離を感じた。
「・・・私が何故電話を差し上げたか、おわかりになっているはずです。
私は貴方に感謝していましたし尊敬もしていました。それがこんな形で恨まれていたなんて・・・残念です」
「恨まれる・・・?私は君を恨んでなんかいないよ」
「ではどうして、貴方とは関係のないあの人にお会いになったの!?」
「私が会いたいと言ったわけじゃないさ、あの若造が私のところへ乗り込んで来たのだ」
えっ?と小夜子は言葉を詰まらせた。
「随分感情豊かになったね、小夜子。やはり子供が出来たら変わるのかな、女は」
「・・・貴方、何をしたの・・・」
「察しがいいね、さすがだ。身上調書は正しく提出するものだと教えてやったら、
凄まじい形相でやってきて、被害妄想も甚だしい。あれじゃダメだね」
「どうしてそんなことを・・・あの人は関係ないじゃない!あの人の未来を潰すなんて、いくら貴方でも許さない!」
「ふん、簡単に潰れる未来なら、元からたいしたことはないのさ。
小夜子・・・君は時々勘違いをするね。私は君に許してもらうことなどない」
携帯を握り締めながら、小夜子は改めてオーナーの怖さを思い知った。
自分や夫の敵う相手ではないのだ。
「・・・もう二度と、私は貴方と関わり合いになることはありません」
「それは君の自由だ。だが覚えておきたまえ、その気になれば私はいつでも君の所在くらい調べがつく」
「そうやって、あの人の事も調べたのね」
「自分の愛しているものを、粗末に扱われるのは嫌だからね。・・・小夜子、声が聞けて嬉しかったよ」
不遜な響きの中に燃え上がる愛の焔は、小夜子の言葉を待つことなく切れた。
「小夜子さん、いつもありがとう。ほんと助かるわぁ。
いままで散髪屋さんに行くって、けっこう大仕事だったのよ。少ないけど、これ今日の分」
ボランティアといっても、小額は出る。
「ありがとうございます。助かっているのは、私の方です。
子供同伴を認めてもらえただけでもありがたいのに、面倒まで見てもらって・・・」
「ハルくんは、おじいちゃん、おばあちゃんのアイドルだもの。
赤ちゃんの笑顔ほど、癒されるものはないわ。ねぇ、ハルく〜ん、またね〜」
癒されているのは小夜子も同じだった。
ほとんどハサミ一本の散髪なのに、カットが終って手鏡を渡すと、皆一様に驚いた表情から笑顔に変わる。
この時ほど美容師であったことに、喜びを感じたことはなかった。
ボランティアはいまの小夜子の、心の支えだった。
そして冬が過ぎ、春を迎える季節となった。
桜並木の下を、乳母車を押して歩く。
相変わらず橋本からの連絡は無かった。
小夜子の方から、何度か携帯にメールを送ったが返信は来なかった。
携帯を変えたのかと電話をしてみても、留守番メッセージが流れるばかりだった。
せめて知っておきたかった大学卒業と就職のこと。
・・・しかしそれも、今さら知ったところで詮無いことなのか。
ハラハラと無情の花びらが舞い落ちる。
小夜子の哀しみを誘いながら。
「・・・あの!すみませーん、ちょっといいですかぁ?」
考え事をしていた小夜子の耳の傍で、若い女性の声がした。
「はい?」
声のするほうを向くと、紺のブレザーに赤いチェックスカートの女子学生が立っていた。
「友達のマンションに遊びに来たんだけど、初めてなんで道に迷っちゃって。
この辺りだと思うんだけどなぁ・・・えっと住所は此処なんですけど」
「私もあまり詳しくはありませんが、わかることでしたら・・・あらっ!?」
「知ってます?」
「ええ、私もこのマンションに住んでいるんです。いま帰る途中なの。すぐそこですから。どうぞ、ご一緒しましょう」
「わあっ!すっごい偶然!助かっちゃったぁ!私って、運が良いんだ!」
少女はおかっぱの黒髪を揺らして喜んだ。
桜並木を抜けると、すぐにマンションが見えた。
「友達が通りから見えるって言うから・・・もう!」
普通なら並木通りからでも見えるのだが、桜の時期だけは目隠しに会う。
「この時期は特別なのよ。お友達を怒らないであげて」
少女の膨れた頬の可愛らしさに、小夜子は笑が零れた。
「ホントに、ありがとうございました!これからちょこちょこ遊びに来るので・・・また会おうね〜、ハルくん!」
エレベーターを待っている間に、少女は小夜子に礼を言いつつ、乳母車の目線にまで腰を屈めて陽仁の頭を撫でた。
「陽仁、お姉ちゃんのお洋服でしょ、手を離しなさい。
ごめんなさい、制服がシワになるわね・・・陽仁の人見知りはどこへ行ったのかしら」
小夜子は慌てて陽仁の手を、少女の制服の袖から引き離した。
「うふふ。って言うことは、私はハルくんに、お友達って認定されたんだよね。ハルくん、握手しよっ!」
今度は少女が嬉しそうに、陽仁の小さな手を握った。
愛らしい少女との出会いの縁に、一期一会の感傷が湧き上がる。
乗り込んだエレベーターの中で、小夜子は近々引っ越すことを告げた。
「・・・せっかく可愛いお嬢さんとお友達になれるところだったのに。来月引っ越す予定なんです」
「ええ〜っ!ざんね〜ん!そっかぁ・・・あっ、着いた!ハルくん、元気でね〜!じゃあ私これで、失礼します!」
少女は明るい声で、元気よく手を振って降りて行った。
小夜子は離婚届を用意していた。
既に印鑑も押していて、引越しが片付いたら橋本の実家へ送るつもりだった。
これ以上待っていても埒があかない。
むしろ待たれる方が、迷惑な話なのだ。
そう決心は着いていても、まだ少ながらず思い悩むこともあった。
それが、昼間出会った少女にただ引っ越すと言っただけなのに、何だか吹っ切れたように心が軽くなった。
やがてマンションを引っ越す日が近づいてきた。
夜、食器や雑貨など、身の回りの梱包をしている時だった。
不意に、人が訪れる時間帯でもない時間に、玄関のチャイムが鳴った。
インターフォンから聞えて来た声は、橋本だった。
耳に馴染んだ低く落ち着いた声が、気持ちを高ぶらせた。
震える手で、チェーンを外した。
「・・・あなた・・・」
橋本は濃紺のダークスーツを着ていた。
すっかり学生の雰囲気は抜けていて、背広姿のせいか年齢よりずっと大人びて見えた。
「・・・長い間、留守にしてすまなかった。陽仁は、元気か?」
そう言ってあの日の時と同じように、ダイニングに座った。
酒を飲んでいるわけでもなく荒々しい動作もない、いつもの小夜子と陽仁を見つめる優しい目だった。
小夜子は高ぶる気持ちを抑え込むように、ここで一気に離婚届けの封書を手渡そうとした。
そうしなければ、また温もりに縋りついてしまう自分が怖かった。
「ええ、元気よ。そうだわ、ちょうど良かった。あなたにお渡しするものが・・・」
橋本の手が、立ち上がる小夜子の腕を掴んだ。
息をのむような沈黙が、再び闇を呼び起こす。
二人の前に立ちはだかる深遠の闇・・・その刹那、橋本の胸に抱きしめられていた。
「要らない・・・そんなものは、破り捨ててやる。
小夜子、頭から離れなかった!どこにいても、何をしていても・・・。頼む・・・」
懐かしく、愛しい匂い。
ああ・・・
「陽仁を、抱かせて欲しい」
どうしてこの人にだけは、私の決心は脆く崩れてしまうのだろう。
いつのときも・・・。
小夜子は抱きしめられていた胸から、そっと身体を離して見上げた。
「・・・私があなたにそんなふうにせがまれて、断れなかったことがある?」
「そうだったかな・・・」
白々しく白を切る夫に、妻も負けてはいないのだ。
「でも陽仁は人見知りが始まっているから、泣かれてしまうかもしれないわね」
「・・・意地悪だな、小夜子」
夫は口惜しまぎれに言ってみても、
「ずっと放っておいた、あなたがいけないんでしょう」
妻のそのひと言で、口を噤む。
闇は渇ききった大地のようにひび割れて、その隙間から甘く濃密な愛が沁み込んでくる。
深遠の闇に吸い込まれていた二人の愛が。
「冗談よ、大丈夫。陽仁は忘れていないわ」
「もう二度と離さないと誓う!だから小夜子・・・その梱包・・・引っ越すのか」
「引っ越す・・・つもりだったけど」
「良かった!間に合ったんだな、俺は・・・」
橋本が小夜子の頬に、頬を摺り寄せて来る。
身体を求めているのが小夜子にはわかった。
だが全てが払拭されたわけではない。
受けた傷が深ければ深いほど、本能に近いところで躊躇いは生じるものだ。
「・・・本当に私でいいの」
「証明する言葉があれば、どんなにかお前を楽にさせてやれるのにな・・・」
橋本の手が絹のような小夜子の髪に絡まる。
「あなたの倫理に外れた女でも・・・」
「小夜子の生きてきた道は、俺なんかの倫理の遥か上にある。
・・・それに気付かせてくれた。小夜子が俺をそこまで導いてくれたんだ」
橋本の腕(かいな)が、小夜子を抱き寄せる。
離すものかと、身動きが取れないほどの力で。
―愛の縺れは、愛でしか解けない―
二人はいまはっきりと互いの愛を、その身体と心で感じるのだった。
新緑萌える季節、再び親子三人の生活が始まった。
橋本は留守にしていた間のことはあまり詳しく話すことはなかったが、小夜子が知りたいと思うことは聞かずとも話してくれた。
「いまの勤め先は、秋月の父親が経営している会社だよ。
内定を取り消されたことを話したら、誘われたんだ。まだ新興企業でこれからの会社だけどね・・・伸び代は充分にある」
「そういえば秋月さん、社長の息子さんだったわね」
「入社するって決めた時に聞かされたんだけど、あいつ認知はされているけど妾腹なんだ。
知っているのは幹部くらいで、体外的には伏せてる。姓も違うしね」
言い澱むことなく話す橋本に、そういった事への偏見は全く感じられなかった。
「そうだったの・・・」
「まっ、そんなことは、うちの会社にはあまり影響はないけどね」
「良い会社ね」
「ああ。若い社員が多いし、徹底した能力主義だ。小夜子、俺は会社の上場を秋月と一緒に目指す。
そしていつか中枢を握るくらいになってみせる」
嬉々として話す橋本の目に、かつての滾る眼差しが甦っていた。
「将来が楽しみな会社ですね。それに携われるのは、素晴らしいことだわ」
「最初から一流じゃない。一流になってみせるんだ」
橋本が一流に拘るのは、小夜子が美容師として一流だったことを知っているからだ。
その芽を摘んだのは他ならない自分だと思っている。
自分のために小夜子は嘱望されていた美容師としての将来を捨てた。
例え小夜子がそうじゃないと言い張っても、橋本にはそう映っているのだ。
一流だった妻には負けられない。
五歳の年の差をハンデと感じているのは、小夜子ではなく橋本の方なのだ。
橋本が就職していたことで、生活は安定した。
まだ入社一年目の給料は手取りも少ないが、それでも親子三人贅沢さえしなければ食べて行ける。
橋本が「少なくて申し訳ないが、これで何とか遣り繰りして欲しい」と言ってきた時、小夜子は「出してあげたくても、もうありません」と言って笑った。
小夜子の貯えもほとんど底をついていた。
何とも言えない表情で「すまない」と肩を落とす橋本に、小夜子はわざと神妙な面持ちを作り夫の前に三つ指をついて頭を下げた。
「これからは私も、あなたに食べさせてもらう他ありませんから。どうぞ宜しくお願い致します」
「・・・ハルー!お前のママは嫌味だなー!ハル!俺の味方は、お前だけだ!」
夫として悔しい気持ちと情けない気持ちと、いずれにしても橋本は歯がゆい思いを胸に陽仁を抱き上げた。
高く、腕を一杯に伸ばして。
俺たちの太陽
キャッキャと喜ぶ陽仁の笑顔が、小夜子と橋本の上に降り注いだ。
小夜子はふざけ合う夫と息子を見つめながら、オーナーを思い出していた。
脅迫めいたことも、いざとなれば厭わないのがあの人の怖さなのだ。
―だが覚えておきたまえ、その気になれば私はいつでも君の所在くらい調べがつく―
或いは不遜なほどの傲慢さ。
―自分の愛しているものを、粗末に扱われるのは嫌だからね―
『者』か『物』なのか・・・所有物に例えるような響き。
しかし現在、小夜子はそのどれにも怯えることはなかった。
橋本との確かな愛の前に、オーナーの最後の言葉が深く沈んで行く。
―・・・小夜子、声が聞けて嬉しかったよ―
あの人は二度と私たちの前には現れないだろう・・・愛していた人だからこそわかる。
それがあの人のプライドなのだ。
小夜子の心に、オーナーに対する憎しみはもうなかった。
時はそんな人の営みの中を、静かに流れ行く。
橋本が戻って来ても、小夜子のボランティア通いは続いていた。
ヨチヨチながら歩くようになった陽仁の手を引いての帰り道、女子学生風の少女とすれ違うと、小夜子は振り返った。
つい道を尋ねて来た少女のことを思い出してしまうのだ。
あれからもしまた会うようなことがあれば、引越しはやめたとひと言伝えたかった。
そんなことを伝えたところで、少女にはたいした問題でもないのだろうけれど。
橋本は家の一切を小夜子に任せて、働くことに没頭した。
もちろん生活の為もあったが、同期のほとんどはまだ独身なので時間に捉われず働いている。
橋本はそれにも負けたくなかった。
サービス業なので、祝祭日に駆り出されるのは常だった。
小夜子はクリスマスも正月も陽仁と二人だったが、むしろ夫の方を気遣った。
一生の中で、無我夢中に働く時期は必ず何度かある。
橋本がいまその時期にあるのを、小夜子は十二分に承知していた。
実家のこともそのひとつだった。
仕事で忙しく話し合う暇がないのか、それともきっぱり絶縁されたのか、橋本は以前のように外泊をしなくなった。
朝早く出勤し夜遅く帰宅する毎日の夫に、小夜子は何も言えなかった。
元々、橋本との結婚は認められるとは思っていなかったのだ。
愛は修復され、橋本は戻って来た。
これ以上の幸せを望むことは、欲のような気さえした。
季節は巡り、親子で迎える二度目のクリスマスが来た。
やはり橋本は朝早くから出勤して行った。
「ハルくん、こっち向いて。はい・・・いい笑顔してね〜。パパ〜、おもちゃありがとう〜って」
小夜子はクリスマスプレゼントで遊ぶ陽仁を写メで撮っていた。
その最中、橋本からメールが入った。
【今から帰る】
いつものそっけない文面。
今から・・・?
今日は一年で一番忙しい日なのに、何かあったのだろうか?
しかし小夜子はもう強い不安に襲われることはなかった。
何があろうとも、夫を信じている。
橋本が帰って来れば、詳細はわかるのだ。
「ハルくん、パパ、帰って来るんだって。
お仕事の日なのに、こんなに早く帰って来るなんて珍しいね〜」
髪とコートの肩を濡らして帰って来た夫に、小夜子は雪が降っていることに気付く。
外は雪が降っていた。
「半日、休みを貰えた」
「こんな忙しい日に?・・・」
「秋月が後は引き受けるからって、今日だけはあいつの言葉に甘えさせてもらったよ」
「あなた・・・」
「これから俺の家に行く。ハルー、お前のおじいちゃんとおばあちゃんだぞ。初対面は盛大に泣いてやれよ」
突然のことに、小夜子は言葉がなかった。
自分が会ってもらえるとは思っていなかった。
陽仁のことなのだ。
陽仁は夫の子なのだから・・・。
「小夜子、両親に会って欲しい」
「そんな・・・いきなり・・・。何も用意出来ていないわ・・・」
本当は、こんなに動揺するはずではなかった。
「何の用意も要らないさ。そのままの小夜子で充分だ」
「でも・・・」
もし、いつか、それは欲だと言い聞かせてはいても、心構えはして来たつもりだった。
「もしもし、俺だけど。・・・うん、これから行くから。・・・おふくろが?・・・ああ、わかった」
橋本は小夜子に携帯を渡した。
「おふくろが、話したいと言ってる。出てやってくれないか」
何も恥ずべきことはない、夫の妻として強い心で・・・
「・・・あの・・・・・・」
しかし強い心は一瞬の内に涙に変わった。
「いえ・・・私の方こ・・そ・・・・・・・・・」
携帯を放したら、泣声を上げてしまうのではないか・・・そんな涙だった。
夫は、妻がそこまで泣くとは思わなかった。
あの大喧嘩の時でさえほとんど涙は見せなかったのに、携帯を耳に充てボロボロと涙を零している。
橋本は小夜子の肩を抱いて、その手から携帯を取り上げた。
「・・うぅ・・・うわあぁぁんっ・・・」
堰が切れたように、小夜子は夫の胸で声を限りに泣いた。
携帯からは、母のすすり泣く声も聞こえていた。
「とにかく行くから。頼むぜ、母さん」
携帯を通して聞えて来た橋本の母の声は、顔が見えない分ダイレクトに小夜子の心に届いた。
心の奥深く、膝を抱えて蹲る小さな女の子の小夜子に。
[ 小夜子さん。長い間・・・不肖の親で、本当に申し訳ありませんでした。
小夜子さん、許して下さい・・・小夜子さん・・・ ]
不肖の親と?自分に対しても、親と言ってくれるのか・・・。
小夜子は親の存在を、初めてその身に感じた。
そしてそれは、自分を産んでくれた母の声のようにも思えた。
小夜子には知る由もない母なのに。
( 小夜ちゃん。ずっとひとりにして・・・悪い親で、本当にごめんね。
小夜ちゃん、許してね・・・小夜ちゃん・・・ )
小さな女の子は長い呪縛から解かれたように、膝を抱えていた手を放す。
立ち上がり伸ばした手の先には・・・
「ママ〜・・・?パァパ、だっこぉ・・・」
「よーし、おいで、ハル。・・・どうだ?ママとハルと、一緒に抱っこだ」
「いっちょ!なの!」
小夜子を包む温かな愛があった。
陽仁の小さな手が、片方ずつ父と母の手を握る。
ヨチヨチと歩く陽仁の歩幅に合わせて、橋本と小夜子は駅までの道を歩いていた。
降り続く雪が、街中をホワイトクリスマス一色に染め上げる。
「あなた、素敵なクリスマスプレゼントをありがとう」
「・・・プレゼントなんかじゃないさ。当たり前のことだろう?」
ベタな演出を見抜かれているようで、橋本は少々照れ臭い。
「じゃあどうして、わざわざ忙しいクリスマスの日を選んだの?」
「それは・・・今の会社じゃ、この先当分親子三人でクリスマスは祝えないからな。こんなことでもないとね」
妻の追及に、意地っ張りな夫はもっともらしい理由をつけて顔を前に向けた。
小夜子は夫の横顔を見つめた。
昨日切った前髪が、パラパラと額に掛かっている。
こっちの方が若々しいからと散髪の時はいつも前髪を下ろしたスタイルで仕上げているのに、気がつくと夫は前髪をバックに撫で付けているのだ。
「・・・何だ?」
「前髪が・・・少し短すぎたわね。今度からはもう少し長めに切りますね」
妻の言葉に、橋本は黙って顔を前に戻した。
実家に着いた小夜子たちを、まず先に出迎えてくれたのは夫の妹だった。
妹はおかっぱの黒髪を揺らしながら、小夜子の前でそっと人差し指を口元にあて片目を瞑った。
小夜子は橋本の実家では、もう泣くまいと固く心に決めていた。
せっかく夫が話す機会を作ってくれても、碌に挨拶も出来ず醜態を晒してしまったのだ。
泣いてばかりの不甲斐無い嫁では、対話の努力を重ねてくれた夫の立つ瀬がない。
・・・それが、またもあっけなく崩れてしまった。
大粒の涙が溢れては流れ、言葉にならなかった。
「こらっ!お前は、何を言ったんだ」
「何も言ってないもーん。お父さん、お母さーん。お兄ちゃんたち来たよー!ハルくん!おいで」
「ねーたん」
おぼつか無い足取りをものともせず、陽仁が少女の後を追う。
家族の絆を象徴するように。
「ママー、お着がえ済んだー」
二階から陽仁が降りて来た。
小夜子はシザーズを収めたカバンを持って、コートを羽織った。
「わあっ、上手に着れたわね、ハル君!やっぱりお兄ちゃんね。・・・さあ、行きましょう」
はみ出たシャツを直し、掛け違ったコートのボタンを掛け直してやりながら。
陽仁は得意満面、お兄ちゃんの笑顔で外に飛び出た。
真っ白な銀世界。
勢い勇んで、ツルリと滑った。
ボフンと尻餅をついた陽仁は、慌てて駆け寄ろうとする小夜子に大きな声で叫んだ。
「大丈夫だもん!ママ、走るところぶの!ころぶと赤ちゃん落っこちちゃうの!」
そしてお尻の雪を払いながら、白い息を切らして小夜子の方へ戻った。
「ママがころばないように、お手々つないでおかないとダメなの!」
手袋を片方外して、手を差し出した。
どうも自分ではなく、小夜子が危ないと思っているらしい。
「ありがと、ハル君」
小夜子も片方手袋を外して、手を繋いだ。
直に伝わる労わりと慈しみ、思いやりの温かさ。
妻は、子に託した夫の思いを改めて噛締めた。
「ねぇ、ママー?パパサンタさんのプレゼント、何かなー!?」
「さあ、何かな? 陽仁君」
そう名前を呼んで、小夜子は微笑んだ。
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